「博士の愛した数式」が誘う、美しい数学の世界
2003年のこの作品。読売文学賞、第1回本屋大賞を受賞し、2005年に発売された文庫版は、当時最速の2か月で100万部を突破しました。
2006年に映画化もされたので、ご覧になったかもしれませんね。
「博士」の語る美しい数学の世界が魅力的で、そこから数学を少しひもといてみたいと思います。
目次
「博士の愛した数式」は、世代を超えた三人の絆の物語
博士の愛した数式の著者、小川洋子さんは、1988年に海燕新人文学賞を受賞。
1991年には妊娠カレンダーで芥川賞を受賞し、その後、太宰治賞、三島由紀夫賞、読売文学賞、芥川賞、河合隼雄物語賞、野間文芸新人賞の選考委員を歴任するなど、現代の重要な作家のひとりです。
その彼女の異色作、「博士の愛した数式」。
描かれているのは、記憶が80分しかもたない数学博士と家政婦の母子との交流です。
家政婦である「私」が、家政婦紹介組合から派遣されたのは、80分しか記憶が持たない元数学者「博士」の家でした。
こよなく数学を愛し他に全く興味を示さない博士に、「私」は当初困惑しますが、私に10歳の息子がいることを知った博士は、幼い子供が独りぼっちで母親の帰りを待っていることを居たたまれなく思い、次の日からは息子を連れてくるように言います。
次の日連れてきた「私」の息子の頭を撫でながら、博士は彼を「ルート」と名付け、その日以来、3人の温かい日々が始まります。
ルートに惜しみなく愛情を注ぐ博士、それに応えて博士を大切に思いやるルート、仕事の枠を超え博士を守る「私」。
さまざまなトラブルを乗り越えながら月日がたつうちに、博士の記憶時間はますます短くなり、ついには施設に入れられます。
ルートが22歳のとき、「私」が誇らしく「ルートは中学校の教員採用試験に合格したんです。来年の春から、数学の先生です」と報告した後、博士は息をひきとり、物語は終わります。
博士と「私」とルートの確かな絆と、三者が醸しだす暖かく穏やかな空気。
切なく優しい読後感が素晴らしい物語です。
小説家の目から見た数学
二項対立的な「文系/理系」という言い方は好きではありませんが、解りやすいので敢えて書きますと、文系の方が数学や数学者を語ることの意味は、非常に大きかったと思います。
文学部出身で、機械音痴とも伝えられる彼女自身に数学の素養があったとは考えにくく、言い方は悪いですが、「変人」をキャラクターとして際立たせ、背景として「数学」を散りばめた感はあります。
参考文献として、ブタペスト出身の数学者エルデシュを描いた放浪の天才数学者エルデシュが挙げられているとおり、博士には実在のモデルが居たのかもしれません。
しかしそれにしては、数学的エピソードが生き生きと語られており、単なる背景としてはもったいないのです。
ある時、博士がルートに出した問題に、「私」は夢中になってしまいます。
この数式に隠された意味を知っているものは限られている。
その他大勢の人々は、意味の気配すら感じないで生涯を終える。
今、数式から遠く離れた場所にいたはずの一人の家政婦が、運命の気まぐれにより、秘密の扉に手を触れようとしている。
この物語が、数学があまり好きでなかった人にも熱狂的に受け入れられたからこそ、本屋大賞を受賞しベストセラーになったことは、間違いありません。
つまりそれだけの力が、この物語にはあったということで、それは、数学や数学者を高校中退のシングルマザーの家政婦の目を通して描写することや、無垢な存在であるルートが数学に魅せられて先生になる結末まで、様々な舞台装置が見事に働いて、数学に興味ない人たちを遠いトコロまでもっていった、ということです。
恐らく、読者は、
- 数学好きではないけれど、数学の美しさを少しは垣間見ることができた
- 数学が苦手な自分にも解りやすくて、数学に興味が湧いた
- 数学の先生は、どうしてこういう教え方をしてくれなかったの
というような感想をもつのではないでしょうか。
普段こどもに算数や数学を教えている立場として、私も考えさせられます。
余談ながら、「博士の愛した数式」は、多くの人に数学の美しさを知らせた功績から、日本数学会出版賞も受賞しています。
以下は、受賞に際して、小川洋子さんから寄せられたコメントです。
今回、思いがけず、日本数学会よりこのように素晴らしい賞をいただき、うれしく思っております。
専門知識は何もなく、ただ数学の持つ美しさと、数学者たちの真摯な姿に心打たれ、小説を書きました。
偉大な真理の前でひざまずく博士のように、謙虚な心を持って、これからも小説に立ち向かってゆきたいと思っています。
本当にありがとうございました。小川洋子
「博士」の語る、美しい数学の世界
ここでは、野暮は承知で、博士の愛した数学の世界を、少しひもといてみたいと思います。
オイラーの公式
後述のとおり、博士の愛した数式とはオイラーの等式のことなんですが、それを理解するためにはオイラーの公式が前提になるので、先ずそこから解説します。
複素平面上で、半径1の円上の点は
eiθ = cosθ + i sinθ
と表現できます。ここで、e はネイピア数、iは虚数単位、θは偏角です。
図に描くと、こんな感じです。
まあ、何が何だか分かりませんね。もう少し詳しく解説します。
複素平面とは、横軸(x軸)に実数を、縦軸(y軸)に虚数をプロットした平面です。
つまり、複素数 z = x + iy を直交座標 (x, y) に対応させた座標平面のことで、複素数の実部を表す軸を実数軸、虚部を表す軸を虚数軸といいます。
上図で、半径1の円上偏角θの点eiθ の、実数部分はcosθであり、虚数部分はsinθなので、
eiθ = cosθ + i sinθ
と表現できるわけです。
オイラーの等式
オイラーの公式において、θ = π (180°のこと)を代入して得られる式を、オイラーの等式といいます。
eiπ = cosπ + i sinπ = -1 + i・ 0 = -1
∴ eiπ+ 1 = 0
この美しい等式が、「博士の愛した数式」です。
式を構成する、一見何の関係もなさそうな5つの重要な数について、補足しますと、
- e:ネイピア数。自然対数の底。(ex)’ = ex(微分しても不変)。約 2.71828(無理数)
- π:円周率。約 3.14159 (無理数)
- i:-1の平方根で「虚数単位」。iはimaginary numberの頭文字(「想像上の数」の意味)
- 1:乗法に関する単位元(何に掛けても同じ数になる)
- 0:加法に関する単位元(何に足しても同じ数になる)
ということです。
何の関係もなかった数学記号を組み合わせたのに、極めて簡単で、美しい調和的結果が導き出されました。
このことを小川洋子さんは、こんな文章でまとめています。
オイラーは不自然極まりない概念を用い、一つの公式を編み出した。
無関係にしか見えない数の間に、自然な結びつきを発見した。
πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。
私はもう一度博士のメモを見直した。
果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。
どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をする。
彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。
ため息の出るような、美しい文章です。
ちなみに、イメージするのが難しい虚数単位 i について「そんな数はないんじゃないでしょうか」と音をあげる「私」に、博士はこう言います。
「いいや、ここにあるよ」彼は自分の胸を指差した。
「とても遠慮深い数字だからね。目につく所には姿を現さないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」
物語のタイトルともなっているオイラーの等式、そして物語としても重要な役割を担うこの式の意味することを、少し補足というか、私なりの解釈を付け加えるとしましょう。
恋愛関係にあったらしい義理の姉への手紙では、もともと、こう表現されていました。
eiπ = -1
ところが、博士を外出させたことに端を発し「私」の解雇を申し渡した義姉に、博士が渡した紙には、こう書かれていました。
これは似て非なる式です。
eiπ+ 1 = 0
この「第2の式」に込められた意味合いは、「第1の式」と違います。
「第2の式」を見た義姉は、興奮を鎮め、「私」に家政婦を続けることを認めたのです。
何故だったのでしょうか。
第1の式は、「いかに美しい式でも、結果はネガティブなもの(-1)にしかならない、禁断の愛を貫いても不幸にしかならない暗示」だと思います。
それに対し第2の式は、「一見関係なさそうな博士・「私」・ルートの三者が出会って(eiπ)、更にポジティブな体験を加えることで(+1)、過不足のない完璧な状態(0)になれる(のだから三者を引き離さないでほしい)」という博士のメッセージなのではないでしょうか。
それを見た義姉は、数学的に等価な数式を使った博士の、自分に対する変わらぬ信頼を感じたと同時に、前向きで豊かな人生を歩み始めた博士と、そのキッカケを作った「私」とルートの大きな存在を認め、赦した、ということではないかと思うのです。
少しロマンチックすぎるでしょうか。
完全数
博士の専門は整数論ということになっているので、この小説には特別な「数」が、たくさん出てきます。
余談ながら私は、「数式なんて出てこないし、タイトルは『博士の愛した数』が相応しいんじゃないか?」と一瞬思ったほどです(笑)。
さて、先ず完全数からです。
完全数というのは「その数字自身を除く約数の和がその数字自身に等しい自然数」ということで、例えば、6 です。
6 の約数は 1,2,3,6 の4つで、1+2+3=6。
28 も完全数で、1+2+4+7+14=28です。
完全数は限られていて、小さい順に、
6, 28, 496, 8128, 33550336, 8589869056, 137438691328, 305843008139952128…
です。
最近までは48個と言われていたが、2016年に49個目が発見されました。
まあ、8番目でも19桁の数ですから、非常にまれな数、ということが言えます。
完全数には、いくつか特徴があります。
完全数は、連続した自然数の和で示されます。これは小説の中でも触れられていますね。
6=1+2+3
28=1+2+3+4+5+6+7
496=1+2+3+ ・・・・・ +31
8128=1+2+3+ ・・・・・ +127
33550336=1+2+3+ ・・・・・ +8191
それ以外にも、6以外の完全数は、奇数の立法和で表され、4の倍数です。
28=13+33
496=13+33+53+73
8128=13+33+53+73+93+113+133+153
33550336=13+33+53+73+93+113+133+ ・・・・・ +1233+1253+1273
実は、小ネタとして見過ごしかねない「28 は阪神タイガースの江夏の背番号なんだよ」という博士の何げない台詞は、この小説の重要な軸になっています。
恐らくこの「江夏の背番号が完全数」という事実が、虎キチの博士と母子を繋ぎ、「私」に数学の世界への扉の鍵を渡す「小説のピントがぴたりと合う焦点」の役割を果たしていて、このセリフがなければ、この小説はもっと味気なく、ピントのボケたものに堕していたとすら思えます。
過剰数、不足数
当然、完全数以外は、約数の和がそれ自身より大きくなるか、小さくなるかだ。
大きいのが過剰数、小さいのが不足数。
実に明快な命名だと思わないかい?
家政婦の「私」が、博士から「18は過剰数、14は不足数」ということを教わって、この2数を思い浮かべる場面があります。
そのくだりもすごくいいので、引用しましょう。
人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた。
いいですよね。
自分の感性を総動員し感情を伴ってイメージでとらえた時、人間ははじめて新しい概念を自分のものできるのです。
あ、こういうことなんだ!というこの感じは、自分の頭で考えたことのない人には解らないでしょう。
この小説のすごいトコロは、ここだと思います。
直感は大事だ。
カワセミが一瞬光る背びれに反応して、川面へ急降下するように、直感で数字をつかむんだ。
問題にはリズムがあるからね。音楽と同じだよ。
口に出してそのリズムに乗っかれば、問題の全体を眺めることができるし、落とし穴が隠れていそうな怪しい場所の見当も、つくようになる。
こう博士に言わせる小川洋子さんは、タダものではありません。
友愛数
友愛数というのは、お互いがお互いの約数の和になっているような、自然数のペアのことです。
こういうロマンチックな名前の数を登場させるトコロも、筆者の抜群のセンスを感じますよね。
「私」の誕生日である2月20日(220)と、博士が学長賞を獲った際に貰った腕時計の裏に刻印された番号(284)は、友愛数の関係にありました。
つまり、こういうことです。
- 220 の約数の和:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284
- 284 の約数の和:1+2+4+71+142=220
見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。
220の約数の和は284。
284の約数の和は220。
友愛数だ。滅多に存在しない組み合わせだよ。
フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。
神の計らいを受けた絆で結ばれた数字なんだ。
美しいと思わないかい?
君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて
博士は、「私」との絆を、コトバの代わりに友愛数で表現しました。
何とも言えない、切なさと、優しさが漂ってくる場面です。
まだまだある、素晴らしい台詞の数々
よくぞ書いてくれました! というような印象的な台詞が、まだまだ惜しげもなく繰り出されます。
まさに、数学の楽しさ、美しさ、その魅力を、感性でとらえろ! と読者にぶつけてくるのは、とても爽快です。
問題を作った人には、答えが分かっている。
必ず答えがあると保証された問題を解くのは、そこに見えている頂上へ向かって、ガイド付きの登山道をハイキングするようなものだよ。
数学の真理は、道なき道の果てに、誰にも知られずそっと潜んでいる。
しかもその場所は頂上とは限らない。
切り立った崖の岩間かもしれないし、谷底かもしれない
そう、まさに発見だ。発明じゃない。
自分が生まれるずっと以前から、誰にも気づかれずそこに存在している定理を、掘り起こすんだ。
神の手帳にだけ記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなものだ。
その手帳がどこにあって、いつ開かれているのか、誰にもわからない。
物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。
数学はその姿を解明し、表現することができる。
なにものもそれを邪魔できない。
僕は今考えているんだ。
考えているのを邪魔されるのは、首を絞められるより苦しいんだ。
数字と愛を交わしているところにずかずか踏み込んでくるなんて、トイレを覗くより失礼じゃないか、君。
実生活の役にたたないからこそ、数学の秩序は美しいのだ。
本当に、コトバに力があります。
小川洋子さんは、数学者を主人公とした小説を書くにあたって、藤原正彦さんに取材したそうです。
つまり、藤原さんに大いに触発されてこの小説を書いたらしいのですが、その藤原さんは巻末の解説の中で、下記のように書いています。
小川さんはこの作品で、数学と文学を結婚させた。
記憶をなくし、身の回りのことも自らできない、哀れとも形容できる老博士が、実はとても幸せだった、と読後にしみじみと思えてくるのは、この結婚が幸せなものだったということでもある。
小川さんの静謐な文章に浸り、「美的な感覚」がどれほど重要か、再認識した思いです。
私も、数学を教えるハシクレとして、こういう感性に訴えるコトバを、もっと意識したいです。