最高の音楽仲間と過ごした、苦しくもしあわせだった日々
明田川満という音楽仲間が居る。
いや、居た。
去年までは。
あけさんこと、明田川満氏との思い出は、数々ある。
もちろん、楽しいことも、ほろ苦いことも。
彼は、中年になってからのクラブ活動の、良き相棒だった。
東京近郊のアマチュア音楽業界では、彼は蕨のライブハウス「ピンク・キャデラック」の「ポピュリー・セッション」プロデューサーとして有名だった。
でも彼に初めて会ったのは、プログレ・セッション。
2005年11月のことである。
その頃、現「ピンク・キャデラック」は未だ「ハニー・フラッシュ」という名で、同じ蕨駅西口に在ったが、本当に小さな店だった。
しかしその小さなライブハウスは、当時、プログレッシャー(プログレッシヴ・ロック・ファン)が「聖地」とまで崇め奉っていた、超有名店だったのだ。
確か山田五郎さんが、何かのTVで、熱く語っていたのを見て知ったように思う。
で、ネットで検索したら、mixiのコミュニティがヒットしたので、そこで参加表明したんだっけ。
2005年当時は、バンド浪人中で、どこかで歌いたくて気が狂いそうだった。
セッションみたいな武者修行の場がとてもありがたく、しかもジャンルがプログレなのねん♪と
ウキウキ上機嫌で参加したことを、今でもハッキリ覚えている。
という訳で2007年頃以来、ポピュリーに参加しまくった。
2018年8月まで、計27回、約100曲。
一時期は、ほとんど皆勤だった。
そんな中、オリジナルバンドに飢えていたものだから、あけさんにバンド構想を持ち掛けた。
こうして2008年、破畜(はちく)が誕生した。
自分のことは棚に上げて言うが、破畜のメンバーは、あけさんをはじめ、結構な凄腕ミュージシャンだった。
控えめに言っても、まあ「スーパーバンド」だった。
こんなメンバーに加入してもらって嬉しくて嬉しくて、精力的に曲を書き、2010年頃までにはバンドとしてのカタチができた。
あけさんには、曲作りのアドバイスももらったし、何よりバンド運営に関して、いろいろ相談した。
しかしその頃から、メンバーが猛烈に忙しくなり始めた。
何しろみんな揃って、売れっ子なのだ。
ギグのブッキングも、半年以上先。
リハのスケジュールも合わなく、ギグ直前の間に合わせ。
当然、ギグはミスばっかり。
そういう負のスパイラル、みたいなものに陥っていた。
結果的には、2012年まで5回のギグを重ね、最後の2回は、憧れだった吉祥寺シルバーエレファントへの出演も果たすものの、ギグの出来は不満が残った。
メンバーが破畜に飽き始めたか、
バンドリーダーとしての自分の力量不足か。
おそらく、両方が理由だろう。
2013年、窮地の策で、メンバーにレコーディングを持ち掛けた。
楽曲は10曲ほどあったから、十分。
最低限スタジオで生音を録って、あとはファイルのやり取りでオーバーダブ。
極力お金をかけずに、EQからエフェクト処理~マスタリングまで自力でこなす「今どきのレコーディング」スタイルを貫いた。
その時もあけさんは、方針に賛同し、一緒にアルバム制作を楽しんでくれた。
ベースのパートは、みるみる良くなり、ベースが聴きどころの楽曲が完成していく様子は、素晴らしかった。
しかし、レコーディングとミックスに3年以上の時間をかけてしまった結果、バンドの初期衝動はすっかり冷めた。
こうして破畜は、2017年のレコ発ギグ直後、空中分解する。
愚かなことに、俺はそれでも破畜を続けられると信じていた。
他のメンバーが全員抜けるといっても、最後まで彼は一緒にやってくれるもんだと信じていた。
でも、彼は抜けた。
おそらく愛想を尽かしたんだと思う。
そりゃそうだ。
パフォーマーとしてもコンポーザーとしても音楽的実力がいまいちな自分が、どうやってバンドを引っ張っていくのか、明確なビジョンがないまま、メンバーの貴重な時間を吸い尽くしたのだ。
手元に残ったのは、1枚のCDだけである。
それから、3年近くの時間が過ぎた。
2020年が明け、正月5日は、彼の通夜だった。
そこで、奥さんから衝撃の事実を告げられる。
彼の遺品を整理していたら、コートのポケットから、破畜のCDが出てきたんだよ
一瞬、何のことだか、わからなかった。
冷静になって考えてみたら、すごいことだと、じわじわ来た。
ただ単に、売れなくて、山のような在庫を抱えてどうにかしたいと思っていただけかもしれない。
それでも、何と嬉しく、ありがたく、また誇らしいことか。
あんなに友達も多く、音楽的興味が広範なあけさんが破畜を気にかけていたのだ。
私は、泣いてしまった。
破畜解散後は、バンドを続けられなかったことで、自分の力量不足を痛感し、恥じ、自信が全く持てなかった。
でも、
そんなことないよ。
あけさんが、そう言ってくれたような気がした。
ポピュリーで、いっぱい遊んでくれたあけさん。
あけさんとは、コピーバンドをやった方が、上手くいったのかもしれない。
でも少し背伸びしながらでも、オリジナルの楽曲をバンドで練り、それをCDのカタチにしたことを、この上なく「しあわせ」だったなぁと思う。
相変わらずポピュリーには参加していたし大人の遠足的レクも、ずいぶん誘ってくれた。
築地を案内したこともあったっけ。
そのことに、どれだけ救われたことか。
彼は、中年になってからのクラブ活動の、良き相棒だった。
友達の多かった彼はそう思っていなかったかもしれないけれど、私は勝手に、彼を親友だと思っている。
そして、これからの人生、私は彼に感謝しながらこのCDを、何度も聴くことになるだろう。
別のオリジナルバンドを結成したとしても、それは変わらない。
彼の、最高の音がこのCDに入っていることを、知っているからだ。